日本人にとってチョコレートは、バレンタインデーやお土産、日常のおやつとして欠かせない存在です。しかし、日本にチョコレートが伝わったのは意外にも江戸時代のこと。当時は「しょくらあと」と呼ばれ、長崎の出島を通じてオランダ人がもたらした異国の珍品でした。
それから200年以上の時を経て、チョコレートは明治時代に商品として販売され、大正・昭和を経て庶民の間に広まり、現代ではBean to Bar(ビーントゥバー)といったクラフトチョコレート文化が花開くまでになりました。日本独自のバレンタインデー文化の誕生も含め、チョコレートの歴史には日本の社会や文化の変遷が色濃く映し出されています。
この記事では、チョコレートが日本に伝来した江戸時代の記録から、明治・大正・昭和の普及の過程、そしてバレンタイン文化や現代のクラフトチョコレートまで、日本とチョコレートの歩みを時代順にたどります。
そもそもチョコレートの起源は?カカオの5000年の歴史
日本への伝来を語る前に、チョコレートそのものの起源を簡単に振り返っておきましょう。チョコレートの主原料であるカカオの起源は紀元前3300年前後までさかのぼり、5000年以上前のエクアドルで食用として摂取されていました。その後メソアメリカでは紀元前2000年前後に栽培が始まっています。
マヤ文明やアステカ文明では、カカオは飲料として利用されていました。王族や貴族、上流階級の人々が結婚式で振る舞ったり、滋養回復の薬として飲んでいたとされています。このカカオ飲料は「ショコラトル」と呼ばれ、カカオをすり潰したものにスパイスなどを加えた苦くて冷たい飲み物でした。現在の甘いチョコレートとはまったく別物です。
1521年にスペイン人のエルナン・コルテスがアステカ帝国を征服し、カカオ豆から作られた飲み物「ショコラトル」の存在をスペイン本国に伝えたことで、チョコレートはヨーロッパへと渡っていきます。当初は砂糖もミルクも入っていない苦い飲み物でしたが、やがてヨーロッパの人々は砂糖や牛乳を加えて甘い飲み物へと変化させていきました。
「飲むチョコ」から「食べるチョコ」へ ― ヨーロッパでの技術革新
チョコレートが現在の「食べるもの」になるまでには、いくつかの重要な発明がありました。以下の表に主な技術革新をまとめます。
| 年代 | 発明者・企業 | 内容 |
|---|---|---|
| 1828年 | C.J.バンホーテン(オランダ) | カカオからココアバターを搾る圧搾機を開発し、飲みやすいココアを誕生させた |
| 1847年 | ジョセフ・フライ(イギリス) | カカオマスにココアバターを混ぜ、固形チョコレートの原型を作った |
| 1876年 | ダニエル・ペーター(スイス) | ミルクチョコレートを発明し、現在のチョコレートの基礎を築いた |
バンホーテンが開発したダッチプロセス製法によって酸味や渋味が軽減され、固形チョコレートの発明によって携帯性・保存性が高まったことで、チョコレートの主流は飲み物から食べ物へと変化していきました。こうした技術革新を経たチョコレートが、やがて日本にも伝わることになります。
日本にチョコレートが伝わったのはいつ? ― 江戸時代の記録
日本にチョコレートが伝わったのは江戸時代のこと。外国との交易の窓口であった長崎に、チョコレート伝来の記録が残っています。
最古の記録は1797年 ― 長崎の遊女がもらった「しょくらあと」
長崎の著名な遊女町であった丸山町・寄合町の記録『寄合町諸事書上控帳』に、寛政9年(1797年)3月晦日、寄合町の遊女・大和路が出島のオランダ人からもらい受けて届け出た品物の中に「しょくらあと 六つ」の記載があります。これが史料に記された日本で最初のチョコレートです。
長崎出島のオランダ人は帰国に際し、使い古した蒲団や道具類などを遊女に与えており、それらは当人に払い下げられていました。つまり、チョコレートは公式な貿易品ではなく、オランダ商館員が個人的に持ち込んだ物が遊女への払い下げ品として流通したのです。
『長崎聞見録』に記されたチョコレートの飲み方
京都の街医・廣川獬が長崎に遊学した際に書き留めた『長崎聞見録』(1797年)には「しょくらとを」として紹介されています。現代語に訳すと、「チョコレートはオランダ人が持ってくる腎薬で、動物の角のような形をしている。色は生薬の阿仙薬に似ており、味は淡泊。熱湯にチョコレートを少し削り入れ、卵と砂糖を加えて茶筅で泡立てて飲む」という内容です。
ここで注目すべきは、当時のチョコレートが「薬」として認識されていた点です。ヨーロッパでも薬として飲む習慣が広まっていた時代であり、日本に渡ったチョコレートもまた嗜好品ではなく薬品として紹介されていました。
江戸時代最後のチョコレート記録 ― 徳川昭武のココア体験
1867年にパリで開催された万国博覧会に幕府代表として赴いた徳川昭武(15代将軍・徳川慶喜の弟で水戸藩主)は、フランス・シェルブールのホテルにてココアを飲んだと日記に記しています。これは文献にあらわれる江戸時代最後のチョコレート(ココア)の記録とされています。
明治時代 ― チョコレートの製造販売と「貯古齢糖」の誕生
明治維新によって日本が開国すると、チョコレートは本格的に輸入・製造されるようになります。ただし、庶民にとってはまだまだ手の届かない高級品でした。
岩倉使節団がフランスでチョコレート工場を見学
明治4年(1871年)から6年にかけて、岩倉具視を特命全権大使とする使節団が米欧に派遣されました。フランスではパリ郊外のチョコレート工場を訪れ、チョコレートの製法やカカオ産地の情報が『特命全権大使米欧回覧実記』に詳述されています。これが近代日本へのはじめてのチョコレートの紹介です。
日本初のチョコレート販売 ― 米津凮月堂の挑戦
日本で初めてチョコレートを加工して販売したのは、東京日本橋区若松町の米津松造(米津凮月堂)だといわれています。明治11年(1878年)に「かなよみ新聞」に「貯古齢糖・洋酒入ボンボン」の広告が掲載されました。
販売当初はチョコレートとカタカナやローマ字で書いたりせず、「貯古齢糖」「猪口令糖」「千代古齢糖」「知古辣」などと、和菓子や漢方薬のような名前で販売されていました。当て字のバリエーションの多さからも、当時チョコレートがいかに馴染みのない存在だったかがうかがえます。
しかし、「貯古齢糖には牛の血が入っている」などという風評が流れ、日本人の多くは不気味がって口にしなかったといいます。10銭で大福もちやあんパンが10~15個も買えた時代に、チョコレートは輸入品の小さな箱がひとつしか買えないほど高価でした。
明治時代のチョコレートに関する主な出来事を時系列でまとめます。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1871〜73年 | 岩倉使節団がフランスでチョコレート工場を見学 |
| 1877年 | 米津凮月堂が第1回内国勧業博覧会にビスケットを出品 |
| 1878年 | 米津凮月堂が新聞に「貯古齢糖」の広告を掲載(日本初のチョコレート広告) |
| 1899年 | 森永太一郎が森永商店(現・森永製菓)を創業 |
| 1909年 | 森永が板チョコレートの製造を開始 |
大正〜昭和初期 ― チョコレートが庶民のもとへ
森永・明治が牽引した国産チョコレートの発展
1918年(大正7年)、森永製菓がカカオ豆から一貫してチョコレートを工業的に生産するようになりました。これにより、それまで輸入原料チョコレートを加工していた方式から、国内で一貫製造する体制が整います。
1926年(大正15年)には明治製菓もチョコレートの製造を始め、生産量が一気に増加しました。品質の向上と価格の引き下げが同時に進んだことで、チョコレートは徐々に一般的なお菓子として認知されるようになっていきます。
戦争による中断と「ギブミーチョコレート」
しかし、日中戦争の激化から太平洋戦争へと続く時代、カカオ豆や砂糖などの物資が不足し、第2次世界大戦によりカカオ豆の輸入ができなくなり、国内のチョコレートの生産はストップします。
終戦後の日本では、進駐軍の兵士が日本人にチョコレートを配り、子どもたちが「ギブミーチョコレート」と叫んでねだる光景が各地で見られました。アメリカ軍の糧食に含まれていたハーシー社製のチョコレートは、食糧難に苦しむ日本の子どもたちにとって忘れがたい味となり、戦後のチョコレート普及を後押しする原体験となりました。
カカオ豆の輸入が解禁となり、チョコレートの製造が再開されたのが昭和25年(1950年)頃のことです。ここから日本のチョコレート産業は高度経済成長とともに急速に発展していきます。
バレンタインデーとチョコレート ― 日本独自の文化はどう生まれたか
バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は、実は日本独特の文化です。海外ではチョコレートに限らず花束やカード、ジュエリーなどを贈るのが一般的で、しかも男性から女性へ贈るケースが多いのに対し、日本では「女性から男性にチョコレートを贈る」という形が定着しました。
モロゾフによる日本初のバレンタインチョコレート広告
1931年、神戸トアロードのチョコレートショップからスタートしたモロゾフは、翌1932年に日本で初めて「バレンタインデーにチョコレートを贈る」というスタイルを紹介しました。欧米でバレンタインデーに愛する人へ贈り物をするという習慣をアメリカ人の友人から聞いた創業者が、この文化を日本でも広めたいと考えたのがきっかけです。
1935年2月には英字新聞ジャパンアドバタイザーに日本初のバレンタインチョコレート広告が掲載されました。ハートボックスのチョコレートと男女の手、キューピッドが描かれた華やかなデザインでしたが、戦前の日本ではなかなか浸透しませんでした。
戦後の再挑戦からバレンタイン文化の定着へ
戦後、複数の企業がバレンタインデーの普及に動き出します。
| 年 | 企業 | 活動内容 |
|---|---|---|
| 1936年 | モロゾフ | 英字新聞にバレンタインチョコレートの広告を掲載 |
| 1956年 | 不二家 | ハート形のお菓子をバレンタインデーに販売 |
| 1958年 | メリーチョコレート | 伊勢丹新宿本店で「バレンタインセール」を実施 |
| 1960年 | 森永製菓 | バレンタイン企画の新聞広告を大規模展開 |
1958年にメリーチョコレートが新宿・伊勢丹の売り場に「バレンタインセール」と手書きの看板を出しましたが、3日間で売れたのは30円の板チョコ5枚とカード5枚だけでした。当初の反応は非常に冷ややかだったのです。
流れを変えたのは1970年代の子どもたちでした。小中学校や高校で「女の子から男の子に告白できる日」としてバレンタインデーが盛り上がり始め、その熱が大人にも伝播していきました。1980年代に「義理チョコ」文化が誕生すると、チョコレート市場は大きく拡大しました。
多様化するバレンタイン ― 義理チョコから「ご自愛チョコ」へ
時代とともにバレンタインの楽しみ方も変化しています。かつて主流だった「義理チョコ」は次第に低調となり、代わって注目を集めているのが自分のために買う「自分チョコ」や「ご褒美チョコ」です。
バレンタインギフトに関する調査結果によると、チョコレートを購入する方の6割以上が「自分用」を選んでおり、購入金額も他の用途を上回る結果となっています。「本命チョコ」だけでなく、「友チョコ」「逆チョコ」など、バレンタインデーのスタイルは年々多様化しています。
現代のチョコレート文化 ― Bean to Barとクラフトチョコレート
2010年代以降、日本のチョコレート文化に新たな潮流が生まれています。それがBean to Bar(ビーントゥバー)と呼ばれるクラフトチョコレートのムーブメントです。
Bean to Barとは何か
Bean to Barとは、カカオ豆(ビーン)の選定から板チョコレート(バー)の製造まで、すべてを自社で一貫して行う製法です。大量生産のチョコレートとは異なり、カカオ豆の産地ごとの個性を生かした味わいが特徴です。
このブームの始まりは2000年代のアメリカで、コーヒーのサードウェーブと同時期に注目され始めました。2007年にニューヨークで創業した「マストブラザーズチョコレート」をきっかけに、2009年頃にはトレンドとなりました。
日本におけるBean to Barの広がり
サンフランシスコ発のBean to Barチョコレート専門店「ダンデライオン・チョコレート」は2016年に日本に上陸し、蔵前にファクトリー&カフェをオープンしました。これを機に、日本各地で小規模なクラフトチョコレートメーカーが次々と誕生しています。
国内ではMinimal(ミニマル)、カカオ研究所(福岡)、Humming Bird BEAN to BAR Chocolate(富山)など、地域に根差したメーカーが活躍しています。日本ビーントゥバー協会は、国内外のBean to Barメーカーやカカオに関わる研究者、教育者と連携しながら、日本のBean to Bar文化を世界へ発信する活動を行っています。
2025年3月には国連大学前で「Tokyo Craft Chocolate Market」が開催され、茨城、京都、福岡、富山、青森など全国各地のクラフトチョコレートブランドに加え、エクアドルやコロンビアからの海外ブランドも出店し、大きな盛り上がりを見せました。
「ファームトゥバー」への進化
2017年頃からは、Bean to Barの概念がさらに進化し、カカオ豆(ビーン)よりもさらに前の段階、つまりカカオ農園(ファーム)から関わる「ファームトゥバー」というスタイルも登場しています。ショコラティエ自らがカカオの生産国を訪れ、農業指導やインスピレーションの獲得を行うという、チョコレートの新しいあり方です。
日本のチョコレート史 年表まとめ
江戸時代から現代まで、日本のチョコレートの歴史を年表形式で整理します。
| 時代 | 年 | 出来事 |
|---|---|---|
| 江戸 | 1797年 | 長崎の遊女が出島のオランダ人から「しょくらあと」を受け取る(日本最古の記録) |
| 江戸 | 1797年 | 廣川獬が『長崎聞見録』にチョコレートの飲み方を記述 |
| 江戸 | 1867年 | 徳川昭武がフランスでココアを飲む(江戸時代最後のチョコレート記録) |
| 明治 | 1871〜73年 | 岩倉使節団がフランスのチョコレート工場を見学 |
| 明治 | 1878年 | 米津凮月堂が「貯古齢糖」として新聞広告を掲載 |
| 明治 | 1899年 | 森永商店(現・森永製菓)創業 |
| 明治 | 1909年 | 森永が板チョコレートの製造を開始 |
| 大正 | 1918年 | 森永製菓がカカオ豆からの一貫製造を開始 |
| 大正 | 1926年 | 明治製菓がチョコレートの製造を開始 |
| 昭和 | 1936年 | モロゾフが英字新聞にバレンタインチョコレートの広告を掲載 |
| 昭和 | 1941〜45年 | 戦争の影響でカカオ豆の輸入停止、チョコレート製造中断 |
| 昭和 | 1950年 | カカオ豆の輸入解禁、チョコレート製造再開 |
| 昭和 | 1958年 | メリーチョコレートが伊勢丹でバレンタインセールを実施 |
| 昭和 | 1970年代後半 | バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣が定着 |
| 昭和 | 1980年代 | 義理チョコ・ホワイトデー文化が誕生 |
| 平成〜令和 | 2010年代〜 | Bean to Barブーム、クラフトチョコレート文化が広がる |
チョコレートの歴史から見える日本の文化
チョコレートの歴史は、日本の社会史そのものでもあります。鎖国下の長崎で異国の珍品として出会い、文明開化とともに西洋菓子として製造が始まり、戦争で途絶え、戦後復興とともに庶民のお菓子として再生し、バレンタインデーという独自の文化を育て上げた――その軌跡には、日本人の好奇心と独創性が映し出されています。
そして現在、Bean to Barやファームトゥバーの広がりは、カカオの生産者との関係や環境への配慮など、チョコレートを取り巻く世界的な課題にも日本が目を向け始めていることを意味しています。甘いお菓子の裏には、5000年以上にわたるカカオの歴史と、それぞれの国・時代が紡いできた物語があるのです。